福岡人物伝 木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の尼(平時子、外祖母で平清盛の妻)と共に入水し亡くなります。
ところで平家一門が都落ちで大宰府に入ったときは、大宰府は戦乱で焼け落ちていたといわれ、 安徳天皇は那珂川の原田種直屋敷に滞在したとも言われています。現在、その地は「安徳」という地名で残っています。 関連記事:安徳天皇
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