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福岡悲話
 【糸島の平家伝説(平安時代)-平重盛の妻子と都見石-

「都見石」の案内板

糸島市の二丈満吉には「都見石(みやこみいし)」という史跡があります。 この石は、唐原(とうばる・糸島市満吉の南部)の山中の畑の所々に露出する1~2m程の岩石群の事になります。唐原には、この石に関する伝説が残ります。

時は源平合戦で平家が大宰府に追われた頃の平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛の妻女と二人の娘がこの唐原の地に隠れ住んだと言われます。姉妹の名は、千姫と福姫と言い、都に比べるとずいぶん厳しい山での生活でしたが、いつか都に帰れる日を夢見て過ごします。二人は山から遠くに見える港に入ってくる船を都からの迎えではないかと、大きな石の上に立って長い間、眺めていたという話が残っています。しかし、二人が都に帰る夢は叶いませんでした。
「壇ノ浦の戦い」以降、源氏の兵は落武者狩りを厳しく行いますが、このとき重盛の妻子が唐原に隠れ住んでいる事が知れ、重盛の血を引く姉妹は斬られ、妻女は悲しみのあまりその後を追ったと伝えられます。
そして後に姉妹が港を眺望するために立った大きな石が「都見石」と呼ばれるようになったという事です。

この唐原の地には、「都見石」の他に、重盛の遺髪を葬った「黒髪塚」、「重盛内室の墓」などの伝説にまつわる史跡が存在します。そして現在でも晴れた日には唐原の「都見石」のある辺りからは、二人が眺望したと思われる深江の湾(糸島半島西)を望むことができるのです。



平重盛は清盛に次ぐ実力者で、後白河法皇からも認められていた人物になります。九州にも強い影響力を持っていましたが、重盛は1179年に42歳の若さで病により没します。現在の「博多どんたく」の前身は「博多松囃子(はかたまつばやし)」とされ、この祭りは博多の繁栄に貢献した重盛を追悼するために始まったという説があります。
重盛没後の翌々年には清盛も病没し、その4年後に平家は壇ノ浦で滅亡します。

あくまでも伝説の話と前置きは必要にはなりますが、重盛の妻子が唐原に逃れて来たのは、1183年、平家が都落ちをして大宰府に入った頃の事だと考えられ、重盛の病没から4年後の事になります。平家の人々は大宰府や原田種直の屋敷に入りますが、後白河法皇から追討の命を受けた豊後の兵が大宰府に迫ると、四国・屋島に逃れます。しかしこの時、重盛の妻子はこの地に残り、大宰府より西に遠く離れた糸島の山奥に身を隠します。この事より、重盛の妻女と言われる人は、原田種直の縁者だったと考えられます。種直自身も重盛の養女でかつ従妹でもある女性を内室として迎えていますので、重盛と種直のつながりが強固なものであった事が想像されます。































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スポットライト人物伝


【黒田長興(くろだながおき)】
(1610年~1665年)


黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は、長興に五万石を与え分藩させることにしました。 これが秋月藩になります。



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