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余談
 【羽白熊鷲の碑

仲哀天皇御代 木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり其の長を羽白熊鷲という 荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す
神功皇后 新羅征討の途次橿日宮(かしいのみや・香椎宮)に出陣中なりしが、斯(か)かる形勢を関知し 先づ内患を断つ事の急務なるを悟り 従駕の臣 武内宿禰(たけのうちすくね)等と審議の末 巨魁羽白熊鷲を征討する事に決せり  神功皇后直ちに軍容を整え 仲哀天皇九年(西暦三九一年)三月 橿日宮を経て松峡宮(まつおのみや)に至り 激戦死斗の結果 遂に層増岐野(そそぎの)に於て 強敵羽白熊鷲の軍勢を剪滅(せんめつ) 此時 聡明且沈着な神功皇后 左右を顧み「収得熊鷲我心即安(くまわしをしゅうとくしわがこころすなわちやすし)」と宣(のたま)う 羽白熊鷲の覇権の強大さ此処に歴然たり
念(おも)うに古代 我が郷土に一世を風靡せし人物を知らず いま彷彿として羽白熊鷲の勇姿脳裏に去来す 吾等は茲(ここ)に 永遠に不滅の羽白熊鷲を懇(ねんご)ろに顕彰し碑を建立して辞となす

平成十四年十二月                山本 辰雄 謹選

引用文献 「日本書紀」「大宰管内志」「大日本時代志」「古事記」「延喜式」「筑前志」 「筑前国続風土記」「考証三代実録」「筑後志」「朝倉風土記」など


この碑は「あまぎ水の文化村」の敷地内に置かれています。



講談社学術文庫『日本書紀(宇治谷孟氏訳)』の神功皇后の項には次の通り書かれています。

荷持田村(のとりたふれ)に羽白熊鷲という者があり、その人となりは強健で、翼がありよく高く飛ぶことができる。皇命に従わず常に人民を掠めている。

この『日本書紀』の内容が事実であれば、羽白熊鷲はおそらく朝倉市秋月辺りに盤踞した大豪族だったと思われ、おそらく神功皇后の大軍に対してゲリラ戦でよく戦ったのではと想像されます。「人民を掠めている」という記述は鵜呑みにしてよいものかわかりませんが、この辺りは敗者の宿命といったところなのかもしれません。




















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スポットライト人物伝


【小早川秀秋(こばやかわひであき)】
(1582年~1602年)


豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とともに苦悩の日々を送ったと想像されます。 そして二年後には若くして死去します。 この秀秋の「関ヶ原」での行動には過去の出来事と戦いに至るまでの流れより同.....[全文を表示]



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