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余談
 【吉塚の由来

立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城に攻めかかります。その時の事が『黒田家譜』で次の通り書かれています。

今度島津より、其父をほろぼしたる事を安からずおもひ、纔(わずか)の手勢にて、八月二十五、彼、高鳥居の城におしよせ、即時に攻落し、城主星野を始め、悉(ことごとく)切崩しける。

この戦いで討たれたのが星野吉実、吉兼の兄弟になります。吉実は統虎を抑えるために島津より高鳥居の城を堅守するように命じられていました。吉実自身は兵をまとめて、自領の筑後・星野に戻りたかったのでしょうが、島津の軍は未だ筑後に有り、身内の者たちを人質に取られるも同然だったのかもしれません。 吉実の首は実検のあと博多の町の東に埋葬され、その塚は地元の人々から「吉実塚」と呼ばれ後に地蔵堂が建てられます。この事が吉塚の地名の由来になります。 江戸前期に書かれた貝原益軒の『筑前国続風土記』には吉塚という地名は記載されていませんので、この地が吉塚と呼ばれるようになったのはおそらく江戸の中期以降の事だと思われます。


吉塚地蔵尊はJR吉塚駅(博多駅から一つ北の駅)から南に200m位のところに祀られています。



















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スポットライト人物伝


【栗隈王(くるくまおう)】
(?~676年)


「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたこ.....[全文を表示]



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