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わかっていない事
 【金印の「委」は「倭」の略字?-委字は倭字を略したる者と相見えん!?-

亀井南冥「金印鑑定書」

「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。

金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀(西暦57年 倭の奴国 貢を奉じて朝賀す)」と書かれており、南冥はこの文章と志賀島で発見された金印を関連付けるものの、金印に刻まれる「委」という文字と後漢書に記される「倭」という文字をどうつなげるか戸惑い、最終的に冒頭に記したにんべん省略説に行き着いたものと想像され、この説は現在も主流となっています。

「委」の読み方に関してはこれまで学者や郷土史家、一般の歴史ファンなど様々な人々が取り組まれ、「委」と「奴」をつなげて委奴国(いとこく・伊都国/現在の糸島市)と読む説などもあるようです。ただ中国で発見される印の文字構成は「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」となっており、この事より福岡市博物館のサイトでは「漢委奴国王」は「漢の倭の奴国王」との読み方が主流であるといった説明がなされています。




















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スポットライト人物伝


【懐良親王(かねながしんのう)】
(1329年~1383年)


後醍醐天皇の皇子で、薩摩から九州へ上陸し南朝側の菊池武光に迎えられ肥後北部の菊池に征西府を開きます。 その後、菊池氏の武力を背景に1361年に大宰府を攻略し九州をほぼ制圧します。 この頃、創生期の明では倭寇に手を焼いた洪武帝が抗議の使者を送りますが、これに日本国王として応対したのが懐良親王です。 親王はこの使者を斬捨てる素振りをしたり、アイロニーに富んだ長文の返書をしたためたりと、一筋縄では行か.....[全文を表示]



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