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案内板
 【船迫窯跡-築上郡築上町船迫-

船迫窯跡

国指定史跡 船迫窯跡
(平成11年1月28日指定)

平成7年、船迫地区の農業基盤整備に伴う発掘調査で、水田下より大規模な工房建物跡が発見されました。これを契機に窯跡の確認調査を実施したところ、9基の窯跡が保存状態も 良く確認されたことから、平成11年に国の史跡に指定されました。
船迫窯跡では約1300年前の古墳時代から焼き物の生産が始まりました。ここから西側の茶臼山東窯跡群では、6世紀後半に須恵器(水甕やお碗など灰色の硬い焼き物)を焼き、また7世紀中頃になると須恵器に加え、瓦の生産も始まりました。さらに奈良時代には、ここ堂がえり地区で豊前国分寺の屋根瓦をつくるため、巨大な建物を2棟建て、粘土から瓦をつくり、乾燥させ、堂がへり1号・2号窯で焼きました。
船迫窯跡は須恵器生産から瓦生産に至る変遷が分かり、また工房と窯跡が一体となった全国でも数少ない貴重な遺跡です。ここ船迫窯跡公園には奈良時代の復元工房建物や、山中には 発掘調査された窯跡をそのまま見学できる窯跡展示建物、出土遺物の展示や陶芸体験ができる体験学習館があります。


船迫窯跡にある案内板より


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スポットライト人物伝


【母里太兵衛(ぼりたへえ)】
(1556年~1615年)


黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。 太兵衛はこの唄で詠われた「日本号」を朝鮮役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送ったといわれます。 そして「大阪夏の陣」で又兵衛が討死すると、太兵衛もまた時をおかず死去しています。



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