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名所旧跡・久留米
 【筑後国府跡-久留米市合川町-



筑後国府跡

史跡 筑後国府跡
平成 8年 3月26日(国史跡)  平成19年 2月 6日(追加指定)
平成15年 8月27日(追加指定) 平成24年 9月24日(追加指定)

筑後国府について
およそ1,300年前の7世紀末、天呈を中心とする中央集権国家が誕生しました。天皇や貴族たちは都に住まい、全国を統治しました。地方は「国」という行政単位に分けられ、各国には役所の「国府」が置かれました。現在の筑後地方付近は「筑後国」となり、その役所「筑後国府」は久留米市合川町一帯に広がっていました。 筑後国府跡の発掘は昭和36(1961)年から実施されており、政庁が3回移転しながら約500年間続いたことが分かっています。

国司館地区
国府には、政治の中心である政庁や様々な官庁、役人の屋敷、工房など色々な施設が広がっていました。政庁や諸官庁には多くの役人達が勤務しており、都から派遣された守・介・掾・目などの国司が上級役人として政治を行っていました。国の正史である『日本三代実録』には、筑後守であった都朝臣御酉が天慶7(883)年に部下達から射殺され、財物を略奪されたことが記されています。出土した土器などから、ここがその場所と考えられています。

久留米市教育委員会 平成29年3月

筑後国府跡にある案内板より





















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スポットライト人物伝


【母里太兵衛(ぼりたへえ)】
(1556年~1615年)


黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。 太兵衛はこの唄で詠われた「日本号」を朝鮮役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送ったといわれます。 そして「大阪夏の陣」で又兵衛が討死すると、太兵衛もまた時をおかず死去しています。



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