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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【水城東門跡-太宰府市国分-



水城大堤之碑

水城の東西端には門が設けられました。ここはその東門跡で、都から大宰府への玄関口でした。 大宰府に赴任する官人たちは、水城の門で出迎えを受け、また送り出されました。実際、寛弘2(1005)年に大宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で大宰府の印と鍵を受けとり、また、天平2(730)年に大宰帥大伴旅人が帰京した時は、水城で役人たちに見送られています。 東門は、藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側には石垣が築かれていたと考えられます。その後、寿永2(1183)年までは、門が存在したようですが(『平家物語』巻第8)、元寇のことを記した『八幡愚童訓』には、礎石があるのみと記され、13世紀後半には、門は無くなっていたことがわかります。その後もここは交通の要衝であったことから、大きく改変され、江戸時代には街道脇に礎石が1個残るのみとなっていました。 平成26(2014)年に一部発掘調査を行いましたが、撹乱されており、門の遺構は残っていませんでした。しかし、門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、門は礎石があるこの付近にあったと推測されます。

平成28年12月 太宰府市教育委員会

太宰府市教育委員会の案内板より

水城
東門礎石




















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スポットライト人物伝


【高山彦九郎(たかやまひこくろう)】
(1747年~1793年)


江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最期を迎えます。しかしその思想は70年後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。長州で維新の原動力となった志士たちを育てた吉田松陰の号は彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」より取られたものと言われています。



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