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余談
 【平家最後の拠点・彦島

九州を追われた平家は1183年11月「水島の戦い」で源義仲を破るものの、翌年2月 源義経に「一ノ谷の戦い」で敗れ、その1年後には「屋島の戦い」で再び敗れ四国を追われます。 「屋島の戦い」の数日前には源範頼が九州芦屋に上陸していたため、行き場をなくした平家一門は長門彦島に逃れますが、まもなく「壇ノ浦の戦い」で悲劇的な最期を迎えることになります。

右上の写真は平家最後の拠点となった彦島を小倉の手向山から撮影したもので、右手が壇ノ浦、左手が小倉から響灘へと続きます。 左下の写真は和布刈第二展望台にある屏風形の案内板で「壇ノ浦の戦い」にいたるまでの簡単な経緯とその戦いの事が記されいます。またその案内板の近くには赤間神宮の「安徳天皇縁起図」を元に描かれた巨大な陶板壁画も置かれています。



















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スポットライト人物伝


【大伴金村(おおともかなむら)】
(?~?)


西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようですが、息子の磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を任那支援に向かわせ、 磐は筑紫で後方支援を担当したと日本.....[全文を表示]



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