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名所旧跡・筑後地区北部
 【高橋城跡-大刀洗町下高橋(竈門神社内)-





竃門神社

【高橋城跡】
所在地 三井郡大刀洗町大字下高橋  中世の豪族「高橋氏」の居城跡で、現在の竃門神社境内を中心とした一帯が城跡のようで、「木戸」・「溝口」・「屋敷」などの地名と、北・西・南を巡る堀が残ってい ました。  「筑後国史」には、「平城なり、縦五十三間、横二十五間、東に広さ三間の堀あり。西にまた二つあり。一つは広さ三間半、一つは二間の堀あり。二の丸は縦四十三間、横二十間、東西に広さ三間、南に二間の堀がある。高橋三河守鑑種先祖より続きたる采地の城なり。鑑種、大友の賞によって筑前岩屋の城を賜りこれに移る。」とあります。(一間は約一.ハメートル) 高橋氏の祖は大蔵春実で、藤原純友の乱(九三九年)平定のてがらにより、上高橋・今・鵜木・下高橋を領地とし、当初上高橋城を居城としていました。また、地名をとって「高橋氏」と名乗っていました。室町時代の高橋長種には跡継ぎがなく、豊後の戦国大名大友宗麟は、名家の絶えることを惜しみ、一族の一万田右馬助に高橋家の家名を継がせ、高橋三河守鑑種と名乗らせました。  その後、高橋氏は居城を上高橋城からここ下高橋の地に移し、弘治年間(一五五五~一五五八年)に筑前岩屋城に移すまでここを居城としていました。  境内に残る宝篋印塔は「高橋様」と呼ばれ、高橋氏ゆかりのものといわれています。 

平成十一年三月三一日

大刀洗町教育委員会

竃門神社境内の案内板より






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スポットライト人物伝


【豊臣秀吉(とよとみひでよし)】
(1537年~1598年)


織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博多町割」と呼ばれる復興を行います。 権力掌握後の秀吉に対しては様々な評価がありますが、海外貿易を重視する秀吉に対する博多商人たちの期待と信頼の気持ちは大きなものだったと思われます。



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