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余談
 【志賀島と海の中道

福岡の志賀島は砂州で九州本土とつながる陸繋島(りくけいとう)になります。そして志賀島と九州本土をつなぐ砂州が「海の中道」と呼ばれています。写真は「海の中道」から志賀島方向を撮影したもので、後方が九州本土の西戸崎という位置関係になります。
志賀島は「漢委奴国王印」が発見されたことで有名で、この金印は国宝として福岡市博物館に所蔵されています。
また鎌倉時代の第二回目の元寇・弘安の役では戦場となった島でもあります。
「弘安の役」では東路軍(元と高麗の兵)4万が博多湾に攻め寄せるものの沿岸には防塁が築かれていたため上陸困難と判断、志賀島から上陸を開始します。東路軍は「海の中道」を渡り西戸崎から和白方面に兵を進めようとしますが、この辺りは東西に細長い地形をした岬であったため大軍を展開することができずに日本軍に撃退されています。結局、東路軍は博多湾からの上陸を諦め、南方より上ってきた江南軍(元に降伏した南宋の兵約10万)と合流するため西に去ります。
現在、志賀島の南部には金印公園があり、そこから海岸沿いに北西へ300mほど進んだところに蒙古塚という史跡が置かれています。
































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スポットライト人物伝


【河野通有(こうのみちあり)】
(1250年~1311年)


伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元軍の船に夜襲をかけます。通有は元軍の放った石弓により負傷しますが、 敵将を生け捕りにする武功を挙げたと言われています。



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