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余談
 【筑紫とは?

益軒は筑前国続風土記の冒頭で、筑紫について言及しています。 「此國を筑紫と名付し事、古は筑前筑後一国にして、是を筑紫といへり。故に日本紀等の古書に、筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり。又九國をすべて筑紫と称し、或九州の内筑前筑後の外をも、筑紫といひし事も間これあり。筑前はいにしへ官府のありし國にて、九州二島をすべてまつりごちし所なれば、其國の名をとりて、九國をもすべて筑紫といへり。たとへば大和に帝都ありし故、日本をすべてやまとと称せしが如し。」

筑前国続風土記の記述どおり、日本書紀では「筑紫」の定義が結構曖昧のようです。
大宰府周辺のことであったり、九州北部であったり、九州全体であったりと・・・ 大まか筑前は筑紫に間違いないと思われますが、これに豊前、豊後、肥前、筑後が含まれたりします。
また九州全体を筑紫とする記述も確かにあるようです。

「筑紫」とは何ぞやとの回答は「定義できないもの」なのかもしれません。この言葉を使っていた人々が正確な「筑紫」を理解していなかったのですから・・・
地理に詳しい地元の人に「筑紫とは?」と質問しても、帰ってくるのは回答は「筑紫?そりゃ西鉄電車に筑紫駅があろうが、あの辺りたい」といったものに違いありません。




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スポットライト人物伝


【亀井南冥(かめいなんめい)】
(1743年~1814年)


大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」と鑑定します。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印です。 甘棠館は後に廃校となり学生は東学問所の修猷館に統合されますが、 私塾亀井塾として亀井学派は存続し門下生から平野國臣や高場乱、広瀬淡窓などを排出しています。 広瀬淡窓.....[全文を表示]



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