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名所旧跡・久留米
 【将軍梅-久留米市宮ノ陣-



将軍梅

 正平十四年(一三五九年)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅をお手植になり、百万遍の仏名を唱えられたとされている。
 対する少弐頼尚は味坂(小郡市)に滞陣した。八月六、七日、両軍は入り乱れての血戦を交えた。これが有名な大保原の合戦である。
 戦いに加わり戦死した兵士は数干に及ぶといわれる。菊池武光の弟武邦は追慕のあまり出家して、この梅樹のほとりに庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが側の遍万寺である。
 星霜を重ねて、親王が手向けられた紅梅は老樹となり里人の語り草となって、この老梅樹を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。

久留米市

宮ノ陣神社にある将軍梅の案内板より






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スポットライト人物伝


【小早川隆景(こばやかわたかかげ)】
(1533年~1597年)


毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。 この人は思慮深く、行動には慎重な人だった様で、 年下の天才軍師・黒田官兵衛を「天才にありがちな、状.....[全文を表示]



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