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名所旧跡・朝倉・うきは
 【天子の森-朝倉町須川-



天子の森

【天子の森】

所在地 福岡県朝倉町大字須川字乗馬2928-1


 斉明天皇6年(660年)7月、昔から我が国と親交の深かった朝鮮半島の百済が、新羅・唐の連合軍に亡され、同年10月、日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。
 この要請を受け、斉明天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に、同年12月大和国高市郡飛鳥岡本宮を出発され、難波の港から海路筑紫に向かわれた。
途中四国の石湯行宮によられ、翌661年3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月9日に朝倉橘広庭宮に遷られた。
 ここ天子の森は、橘広庭宮の一部であった所といわれ、斉明天皇が崩御された同年7月24日までの75日間、天皇が政務をおとりになった大本営があった所だといわれている。
 現在、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれる「木の丸殿跡」や、斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれている「御陵山」等の旧跡がある。


朝倉町教育委員会(現朝倉市教育委員会)の案内板より




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スポットライト人物伝


【河野通有(こうのみちあり)】
(1250年~1311年)


伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元軍の船に夜襲をかけます。通有は元軍の放った石弓により負傷しますが、 敵将を生け捕りにする武功を挙げたと言われています。



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