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名所旧跡・筑後地区北部
 【西鯵坂城跡-小郡市下西鯵坂-



西鯵坂城跡

【西鯵坂城跡】
 ここから東南二百米ばかりの所、大楠の下に小さい石の堂が建っている。ここが城の中心地で、筑後志には「筑紫上野介家宗が據りし所なり。縦六十間、横二十間の平城なり」と書いてある。宗氏代々の居城であった。戦国時代の末期、薩摩の島津義久は九州を征服しよう○○て軍を進め、筑後川を渡って岩橋麟迦の居城古賀城(宮ノ陣町古賀)を落して西鯵坂城におし寄せた。城主宗統家が死守したが衆寡敵せず遂に全滅の悲運にあった。島津軍は尚北上して太宰府の岩屋城に迫り高橋紹運を攻め亡ぼしたが、豊臣秀吉の援軍には敵しかね、薩摩に退いて降服した。今、城跡をさぐると、石の堂の内壁には次の字が刻してある。

明治十五年壬午二月吉日
大己貴神社
佐々木英雪
同  宗助


【下西鯵坂邑】
 (註、大已貴神とは大黒様をいう)
 土地の人は、いんにやく様といって十一月三十日に村人か相よってお宮籠もりをしたが、今は佐々木家だけでお祭をしてある。
 (註、印鑰様とは神社や寺の印とカギを大切に保管するため神として祀ったもの)もとこの神社は城の戌亥角(西北)にあったのを、今の地に移したもので、その跡からボロボロになった古銭や刀剣が出土したそうであるから、大方城内の金庫を守る神として大黒様や印、カギを 祀ったものであろう。堂の近くに古井戸が残っているが、昔の場内の井戸に違いない。
 内堀と見られる溝が今も残っており、ここから西へ進むと大木戸堀というのがある。南の方には竜の堀という堀もあって、普済寺の北堀と連なって城の外堀の跡を止めている。
 大木戸とは城の出入ロをいい、城の東南方はるか彼方に大御門という所もある。


昭和五十三年二月
小郡市教育委員会
小郡市郷土史研究会案

「西鯵坂城跡」の案内板より
○は判読不明の文字です。





















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スポットライト人物伝


【吉備真備(きびまきび)】
(695年~775年)


奈良時代に安倍仲麻呂や玄昉と共に唐に派遣された留学生です。時の権力者の橘諸兄(たちばなもろえ)の元で改革を進めたものと思われますが、しかし何があったのか突然、筑前守として左遷されます。大宰府では副遣唐使や大宰少弐、大弐を歴任し、また筑紫の軍備や防衛を任される任務についていたようです。学識も高かったようで、大宰府まで派遣された官人に諸葛亮や孫子の戦術を講義しています。
都への復帰の時期は不.....[全文を表示]




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