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名所旧跡・博多区
 【筑前国一の宮 住吉神社-博多区住吉-



住吉神社の歴史は1800年以上とされ、全国に2000社以上ある住吉神社の中でも最初に創建されたと言われています。鎌倉時代に冷泉津(天神、中洲辺りにあった入江)の岬であった現在の地に既に在したとされ、神社南側の地域・美野島は字のごとく島であったということです。この様な環境より住吉神社は古くから国内の海運や大陸との交易に深く関わっていたと考えられ、現在では航海安全の神として崇敬されています。また現在の本殿は黒田長政によって再建されたもので、400年近くの歴史があり、国の重要文化財に指定されています。

境内には「博多古図の絵馬の案内板」の他、邪魔になって切られる事が一決すると一夜にして幹が真っ直ぐ立ち上がったとされる「一夜松」の子孫木、「古代力士像」、「鬼縛り石」などの見どころが多数あります。



住吉神社 本殿

【住吉神社と文化財】

住吉神社は『延喜式(えんぎしき)』(延長5(927)年に完成)の神名帳(じんみょうちょう)に明神(みょうじん)大社としてその名が見える式内社で、筑前国の一の宮、旧官幣小社(かんぺいしょうしゃ)でありました。祭神は底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表筒男命(うわつつのをのみこと)です。 平安時代には朝廷からの奉献を受けたことが記録に残され、古代から国家鎮護や船舶守護の神として信仰されてきました。 また、中世には和歌の神としても敬われ、著名な連歌師(れんがし)である宗祗(そうぎ)もここを訪れています。
 このような長い歴史をもつ住吉神社には多数の貴重な文化財が残されています。まず、国指定重要文化財である「住吉神社本殿」(図1)は元和9(1623)年に初代福岡藩主黒田長政が再建したもので、この建造物は、住吉造(すみよしづくり)と呼ばれる建築形式です。梁間(はりま)2間、桁行(けたゆき)4間の規模をもち、切妻造妻入(きりづまづくりつまい)りの構造に、檜皮葺(ひわだぶ)きの屋根を特徴としています。 また、社務所別館の南側には昭和13(1938)年に建築された福岡市指定有形文化財「住吉神社能楽殿(のうがくでん)」(図1・写真)があります。鎌倉時代以降の住吉神社の歴史を知る上で貴重な「住吉神社文書」や鎌倉時代末の歌集である「松花和歌集巻第五(しょうかわかしゅうかんだいご)」の古文書も同様に市の有形文化財指定を受けています。また、「銅戈(どうか)」六口や「銅矛(どうほこ)」五口(写真2)は福岡県指定有形文化財で、いずれも弥生時代に我が国で製作された青銅製の祭器ですが、出土した状態や場所は不明です。
 なお、神社は現在、内陸に位置していますが、中世の終わり頃までは、博多湾がこの一帯まで大きく湾入しており、当時は河口に突き出した場所に立地していました。

2004年9月 福岡市教育委員会

住吉神社境内にある案内板より
文中に(図1)や(写真2)などの注釈がありますが、ここでは図、写真の掲載は省略しています。






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スポットライト人物伝


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(1180年~1185年)


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