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福岡史伝・江戸
 【山田堰の建造(江戸時代中期)

左側が「堀川用水」へ流れる水路
中央が「山田堰」、右手が筑後川本流
朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。
山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な水を利用する事が難しかったのかもしれません。この水不足を打開するために建造されたのが「山田堰」で、用水を田地に送った水路を「堀川用水」と呼びます。

山田堰は川をせき止め水の流れを変えるのではなく、川の底に巨石で石畳を敷き川底を僅かに盛り上げて一部の水を堀川用水へ導く方法が採られています。このため水かさが少ない時は堰は姿を現し、降雨で水量が増すと水没してしまいます。
「三連水車の里あさくら」にある
実物大のレプリカ三連水車
これは昔から氾濫を繰り返す筑後川に幾度となく堰を押し流された当時の地元民たちが考案した「自然の力に逆らわない究極の堰」の形なのかもしれません。
「堀川用水」は現在も農業用水として利用され、この「山田堰」より1500mほど下ったところに朝倉市の観光名所「朝倉三連水車」が置かれています。




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スポットライト人物伝


【菊池武光(きくちたけみつ)】
(1319年~1373年)


菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前へ侵攻します。 この時、筑前では北朝方の少弐頼尚と九州探題・一色範氏との間で内部抗争が起こっていま.....[全文を表示]



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