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福岡史伝・江戸
 【山田堰の建造(江戸時代中期)

左側が「堀川用水」へ流れる水路、中央が「山田堰」、右手が筑後川本流
朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。
山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な水を利用する事が難しかったのかもしれません。この水不足を打開するために建造されたのが「山田堰」で、用水を田地に送った水路を「堀川用水」と呼びます。

山田堰は川をせき止め水の流れを変えるのではなく、川の底に巨石で石畳を敷き川底を僅かに盛り上げて一部の水を堀川用水へ導く方法が採られています。このため水かさが少ない時は堰は姿を現し、降雨で水量が増すと水没してしまいます。
「三連水車の里あさくら」にある実物大のレプリカ三連水車
これは昔から氾濫を繰り返す筑後川に幾度となく堰を押し流された当時の地元民たちが考案した「自然の力に逆らわない究極の堰」の形なのかもしれません。
「堀川用水」は現在も農業用水として利用され、この「山田堰」より1500mほど下ったところに朝倉市の観光名所「朝倉三連水車」が置かれています。




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スポットライト人物伝


【立花道雪(たちばなどうせつ)】
(1513年~1585年)


大友氏の猛将で、反旗を翻した立花鑑載(たちばなあきとし)を降して立花山城に入場するまでは戸次鑑連(べっきあきつら)の名で知られています。 毛利氏と連携した筑前の秋月、高橋、筑紫氏らが抵抗の兵を挙げると大友軍の中心武将として戦い、 また肥前の龍造寺氏、中国の毛利氏の侵攻を防ぐ活躍をします。 若い時に雷に打たれ足が不自由だったため戦場では輿に乗って指揮をとったといわれています。



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