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名所旧跡・筑後地区南部
 【塩塚城跡と蒲池氏百八人塚-柳川市大和町塩塚-



百八人塚(後方が塩塚城跡の地)

大和町文化財


塩塚城跡
指定 昭和五三年一一月一四日
所在 大和町大字塩塚下塩塚地区
「百八人塚」の北東約二〇〇メートルの所とおもわれる。

近世初頭の平城で、本丸の規模は、東西一五間(二七メートル)、南北一四間半(二六・一メートル)でした。 天正年間(一五七三~九一)、柳川城主蒲池鎮並(かまちしげなみ・鎮漣)の一族塩塚石見守がこの城を守りました。
天正九年(一五八一)五月二七日、佐賀城主龍造寺隆信は、佐賀の与賀(よか)で鎮並を謀殺、その勢いで翌二八日、 鎮並の弟統安(むねやす)が守る柳川城を攻め落し、さらに六月一日、統安の二男塩塚鎮貞(しげさだ)が守る塩塚城を 鷹尾城主田尻鑑種(あきたね)と共に攻めました。 鎮貞ら一族は、ことごとく討死し、城はついに落ちました。


蒲池氏百八人塚
指定 昭和五三年一一月一四日
所在 大和町大字塩塚字塚
宗樹寺前。

天正九年(一五八一)五月二八日、蒲池統安が守る柳川城が落城のとき、 鎮並夫人玉鶴姫を始め、子息・侍女ら一〇八人は、統安の二男蒲池鎮貞が守る塩塚城へ遁れました。 六月一日、塩塚城は、佐賀城主龍造寺隆信と鷹尾城主田尻鑑種に挟み撃ちにあい、落城しました。
一〇八人は、最初の間、少し東の蒲原(かまはら)に隠れていましたが、ついに自害または殺害されました。 後日、遺骸を宗樹寺の前に集め、弔ったのが百八人塚です。
玉鶴姫の遺骸は本堂の横に埋葬し、その上に若宮神社を建立、のち下塩塚の住吉宮の合祀したと伝えられています。


大和町教育委員会

大和町文化財の案内板より






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スポットライト人物伝


【真木和泉(まきいずみ)】
(1813年~1864年)


久留米藩の尊皇攘夷の志士で攘夷派の公卿に強い影響力を持ちますが、 「八月十八日の政変」で長州藩が京都を追われると長州派の七卿に下関まで同行します(「七卿落ち」)。 そして翌年には長州軍の一部隊として「禁門の変」に参戦しますが、 戦況が不利になると天王山に登り同士16名と共に自刃し志半ばで一生を終えることになります。



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