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福岡史伝・平安
 【筑後竹野の戦い(1183年)

原田種直の屋敷があった安徳台

木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。
そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動きを示し、平家に九州より出ていくよう勧告の使者を送ります。これに対し平家は源季忠と平盛澄を将に立て、兵3000を向わせます。平家と緒方の両軍は筑後の竹野(久留米の10㎞ほど東方)で戦端を開きますが、緒方の軍は3万の兵で雲霞の如く押し寄せたため、平家の軍はこれを支えきれず大宰府へ敗走します。
平家物語ではこの戦ののち「やんごとなき女房達、袴の裾を取り・・・水城の戸を出でて、かちはだしにて我先に先にと箱崎の津へこそ落ち給え。折節降る雨、車軸のごとし。吹く風、砂をあぐとかや。落つる涙、降る雨、分きていづれも見えざりけり。」という有名なくだりに入っていきます。




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スポットライト人物伝


【近江毛野(おおみけな)】
(?~530年)


継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し反乱を起こします。 乱は1年半で平定されますが、その後、兵を率い朝鮮に渡った近江毛野の任那復興は上手くゆかず、新羅のみか百済からも攻められ窮地に陥ります。 この失策を理由に帰還を促されますが、すぐには戻らず二度目の命令でようやく腰を.....[全文を表示]



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