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名所旧跡・筑豊地区
 【貝原益軒先生学習地の碑-飯塚市八木山-



貝原益軒先生学習地の碑

【貝原益軒学習の碑】

この約40坪の宅地は貝原益軒か8才から11才(1638~1641年)までの幼年時代を過ごした住所です。 貝原益軒(1630~1714年)は福岡藩士貝原寛斎の子として福岡城内で生まれ、 忠之・光之・綱政の三君に仕えました。8才の時、父に従って飯塚市八木山の知行所に移り住みました。ここで父や兄から書字を学び、19才で忠之の御納戸御召料方となりました。しかし、2年後に忠之の怒リにふれ、27才の時父のとりなしで光之に仕えるようになるまで、長い浪人生活を送りました。その後知行二百石となり、藩主・世子に待講し、藩士に授講しました。 光之の代に始まる藩文治主義改革のブレーンとして佐賀藩との国境問題に奔走、藩命により「黒田家譜」「筑前国続風土記」を編述し、また重臣にしぱしば諌言書を出しました。
医学者・儒学者・本草学者であり、また学問の他に、教育や経済の分野でも功績を残しました。 主な著書に「養生訓」「大和本草」「慎思録」「大疑録」などがあり、 その膨大な著書は多く平易で流麗な和文で書かれたので、よく大衆の間に普及しました。

飯塚市

「貝原益軒学習の碑」の案内板より






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スポットライト人物伝


【黒田長政(くろだながまさ)】
(1568年~1623年)


豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。それから二十数年後に秀吉が死去し「関ヶ原の戦い」が起こると、 徳川家康の東軍に属します。この戦いは小早川秀秋の寝返りで東軍が勝利を大きく引き寄せたといいますが、 この「寝返り」を事前に根回ししたのが長政だといわれています。戦後、長.....[全文を表示]



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