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わかっていない事
 【「漢委奴国王」の読み方は?-「倭」は「委」から生まれた新漢字?-

亀井南冥「金印鑑定書」

金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。
この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。
具体的に説明すると、中国統一後の時代は

秦(BC221-BC206)

漢(BC206-8)

新(8-23)

後漢(25-220)

三国時代(220-280)

晋(265-420)

五胡十六国(304-439)

南北朝(宋・北魏)(439-589)

と変遷するのですが、この中の後漢の初代皇帝の時代に金印は送られています。そして「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。(調査不足かもしれません。もしあったら申訳ありません。)
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味を持っておらず、東方の島国を表すために創作された文字に違いない様です。これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら公文書を管理する後漢代の学者が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。
この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。

以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。
金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたものでしたが、その判を見た後漢の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは?
こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・。

元の時代に書かれた宋史にも「自後漢始朝貢(後漢に始めて朝貢してから)・・・」と書かれ、少なくとも元の時代の史家は中国と倭の関係は後漢の時代からと認識していたようです。後漢以前に公式な接点がなかったと言う事は「倭」という文字は後漢以降に派生した可能性が少なくない事を物語っているのかもしれません。

たぶんこの説は、素人歴史ファンから過去に挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・

写真は福岡市博物館に展示される亀井南冥の「金印鑑定書(複製)」です。ここには『唐土し書。本朝を倭奴国と省之は委字ハ倭字を略したる者と相見えん』と書かれ、内容は『中国の史書には日本を倭奴国とする。この金印の「委」は「倭」を略したものと考えられる。』といった意味だと思われます。




















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スポットライト人物伝


【奴国王(なこくおう)】
(西暦57年頃~)


倭国の最南端にあった国の王で、西暦57年に「大夫(だゆう)」という役職の使者を後漢に派遣します。 これに対し当時の皇帝であった光武帝は金印を送りますが、これが江戸時代に志賀島の田地より掘り出され、 現在は福岡市博物館に所蔵されている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印になります。



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