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わかっていない事
 【金印はなぜ志賀島で発見された?-奴国王の思惑は?-

江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません。
ところで金印に刻印された「漢委奴国王」という文字は「漢の倭の奴の国王」と解釈されるのが通説となっています。ちなみにこの時代より約200年後には、卑弥呼が魏の曹叡(そうえい・曹操の孫)より「親魏倭王」印を送られています。こちらは「魏と親しい倭王」という意味で倭国を独立した国と認めているのですが、「漢に属する倭国の中の奴国王」となると、倭国全体も奴国自体も漢の一部とみなす表現で奴国王としてはとても承服できない内容であったに違いありません。
仮にもしこの印を奴国王が使用するようなことがあれば、倭国内の他の国々からも批判の声が上がったでしょうし、倭国よりの独立を疑われそれを理由に攻められる可能性も皆無ではなかったでしょう。そんな事情で、奴国王はこの友好の品の取り扱いに苦慮したと思われます。
江戸時代に金印贋物説を唱えた派閥の中には「わが国を清国の領土とするような金印などいっそのこと鋳潰してしまえばよい!」と荒っぽいこと言い出す人も現れたようですが、奴国王も同様なことを思ったのかもしれません。さすがに友好の品を鋳潰す事までは考えなかったのでしょうが、金印を極秘裏に奴国の片隅の島に封印してしまった。といったシナリオも一つの説としておもしろいのかもしれません。

今から約2000年前、使者が持ち帰った金印を前に奴国王とその臣下たちはどのような問答を繰り広げたのか、今となってはその様子を想像するしかありません。

































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スポットライト人物伝


【河野通有(こうのみちあり)】
(1250年~1311年)


伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元軍の船に夜襲をかけます。通有は元軍の放った石弓により負傷しますが、 敵将を生け捕りにする武功を挙げたと言われています。



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