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名所旧跡・筑豊地区
 【鎮西八郎為朝屋敷跡-田川・香春町-



「鎮西原為朝屋敷」跡の碑

【鎮西八郎為朝屋敷跡の碑】

 県立田川農林高等学校の校歌に『鎮西原に為朝の居城の跡を偲びつつ』 とありますが、 「応永戦乱記」にあるように、この地は平安時代末期、 仁平二年(1152)源為義の八男為朝(鎮西八郎為朝)が豊後国臼杵から移住した折館を構えた所であり、 今でもこの地を鎮西原と云います。
 為朝は幼時より剛勇で聞こえ、殊に剛弓の射手として知られており 北九州を支配した武将です。 仁平三年一月には源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請し、 この時為朝は九州の主だった武将を率いて、当町宮尾の鶴岡八幡宮に参詣しています。
 久寿元年(1154)故あって父為義の為に帰京しています。従って此の地には僅か二年足らずの在城でしたが、 嫡子鶴王丸に阿蘇忠国を後見として守らせ、八代の孫、公朝は遂に応永五年(1398)正月、嫡子冠者丸と共に、 大内盛見に下って、当地の源氏は滅亡したと云われています。

香春町教育委員会
贈 田川ライオネスクラブ
平成四年五月二十九日

「鎮西原為朝屋敷」跡の案内板より

自ら鎮西と名乗り九州で暴れまわった源為朝はその狼藉を理由に京都に呼び戻されますが、そこで翌年に起こった「保元の乱」に巻き込まれます。 父・為義に従い平清盛や兄・源義朝を相手に強弓で奮戦しますがついに破れ、伊豆大島に流されます。 しかしそこでも為朝は洒落にならないぐらい暴れまわり、朝廷の指示で派遣された軍に攻められて自害することになりました。
ところで右腕より左腕の方が10cm以上長かったといわれる為朝ですが、これは幼少から弓の鍛錬を積んだのが関係しているのでしょうか?






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スポットライト人物伝


【山鹿秀遠(やまがひでとう)】
(?~1185年?)


豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏の同族といわれることから菊池市に隣接する山鹿市と筑前の山鹿の地名には何らかの関係があるのかもしれませ.....[全文を表示]



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