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名所旧跡・中央区城南区
 【加藤司書 歌碑-西公園内-


 【加藤司書 歌碑】
               (1828年~1865年)

福岡藩の家老職で勤王派。ロシア船が開国を求め長崎に来航した時には、500余人の藩兵を指揮し艦隊を穏便に退去させました。 また、長州征伐の際には藩主の命を受け、内乱を防ぐために西郷隆盛と共に征討の中止に尽力し、国内の混乱を収めました。
その後、薩長連合の実現を目指し奔走しますが、藩論が一変したことにより筑前勤王党が弾圧(乙丑の獄)され、博多区冷泉町にあった天福寺で切腹を命じられました。享年36。

歌碑には、「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき 只身にもてる赤心を君と親とに盡すまで」と刻まれています。

中央区役所 企画課

中央区歴史と文化の説明板より

ここには以前、加藤司書の銅像がありましたが、残念なことに現在は台座のみが残されています。
「昭和4年、西公園に建てられた司書公の銅像(戦時中に供出され、現在銅像はありません)」 として「中央区歴史と文化の説明板」の中に当時の写真が載せられています。





















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スポットライト人物伝


【立花宗茂(たちばなむねしげ)】
(1567年~1643年)


高橋紹運の長男として生まれ後に嫡男のない立花道雪に請われて養子となり立花家を継ぐことになります。 島津軍の筑前侵攻では父・紹運が岩屋城で玉砕するものの、宗茂は香椎北東の立花山城に篭り豊臣秀吉の援軍が九州に上陸するまで城を守りきります。 その後、数々の武功を上げ秀吉より柳川13万石を与えられますが、関ヶ原の戦いでは秀吉への恩義から西軍についたため改易され浪人となります。 しかし20年後には許され柳川.....[全文を表示]



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