【加藤司書 歌碑】 (1828年~1865年) 福岡藩の家老職で勤王派。ロシア船が開国を求め長崎に来航した時には、500余人の藩兵を指揮し艦隊を穏便に退去させました。 また、長州征伐の際には藩主の命を受け、内乱を防ぐために西郷隆盛と共に征討の中止に尽力し、国内の混乱を収めました。 その後、薩長連合の実現を目指し奔走しますが、藩論が一変したことにより筑前勤王党が弾圧(乙丑の獄)され、博多区冷泉町にあった天福寺で切腹を命じられました。享年36。 歌碑には、「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき 只身にもてる赤心を君と親とに盡すまで」と刻まれています。
【大夫(たゆう)】(西暦57年頃~)西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。
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