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名所旧跡・中央区城南区
 【鴻臚館跡-城内-


 【鴻臚館跡】

鴻臚館はわが国の古代の外交施設で、平安京(京都)、難波(大阪)、筑紫(福岡)の3ヵ所に置かれて いましたが、現在その場所が確かめられ、遺跡として残っているのはここ筑紫の鴻臚館だけです。 1987年(昭和62年)末に平和台野球場外野席で発見されました。筑紫の鴻臚館は、飛鳥時代から平安時 代までの約400年もの長い間、わが国の外交の最前線として、また、文化・文物の流入の門戸として 重要な役割を果たしてきました。  筑紫の鴻臚館は、奈良時代以前には筑紫館(「つくしのむろつみ」、または「つくしのたち」)と呼ばれていましたが、 中国の外交制度にならって、平安時代の初めに中国風の鴻臚館と改められました。  筑紫館の造営は「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府の整備とともに行われました。筑紫館が初めて記録 に現れるのは688年(持統2年)です。万葉集には、736年(天平8年)新羅への使節一行が筑紫館で詠っ た16首が残っています。名をあらためた筑紫の鴻臚館は838年(承和5年)の記録に初めて現れ、1091年 (寛治5年)の記事を最後として歴史の上から姿を消します。  鴻臚館はその当初、外国からの使節のもてなしや遣新羅使、遣唐使たちの宿泊する公的な施設とし て利用されていましたが、平安時代になると、しだいにその性格が変わり、民間の交易の場となりま す。鴻臚館跡から出土した大量の国際色豊な遺物は、9世紀から10世紀にかけて最も盛んになった貿 易のようすを物語っています。

                            

 1996年3月    福岡教育委員会

案内板より





















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スポットライト人物伝


【亀井南冥(かめいなんめい)】
(1743年~1814年)


大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」と鑑定します。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印です。 甘棠館は後に廃校となり学生は東学問所の修猷館に統合されますが、 私塾亀井塾として亀井学派は存続し門下生から平野國臣や高場乱、広瀬淡窓などを排出しています。 広瀬淡窓.....[全文を表示]



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