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名所旧跡・福岡地区東部
 【蒙古碇石-福岡市東区箱崎宮境内-



【蒙古軍船碇石】
福岡県指定 文化財

文永十一年(西暦一、二七四年)十月二十日 蒙古軍三万は、九百隻の艦船に乗って博多に迫り、終日わが軍と激戦を交え、本宮も兵火によって、焼失したのであったが、翌二十一日朝には、意外にも湾内から姿を消してしまった。
世上これは神風によるものだという。
古来博多付近には蒙古軍船の碇石と称するものが十数本あり、肥前から壱岐にかけても五本ほどあって、いずれも海中から引揚げられたものであるが、場所がら歴史的記念物であるとして珍重されてきた。
この碇石は博多港中央波止場付近の海中から引揚られた六本中の一本であって、石質は赭色凝灰岩である。 この種の石材は蒙古軍の造船地であった朝鮮全羅南道興南方の天冠山に求めることができる。

筥崎宮境内「蒙古軍船碇石」の案内板より

碇石の後ろに見える石垣は、西南高校にある元寇防塁を一部移設展示したものです。



















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スポットライト人物伝


【高橋鑑種(たかはしあきたね)】
(1529年~1579年)


一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を攻め滅ぼし、実兄の一万田親実の婦人を側室に入れた事が一因といわれています。



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