『福岡史伝』はリニューアルしました。新ページはこちらからどうぞ!!

旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。



Mousegallery






名所旧跡・博多区
 【「黒田節」像-JR博多駅博多口-



「黒田節」像

【黒田節の由来】
文禄五年(1596年)正月、黒田長政の家臣、母里太兵衛は主命により福島正則の邸に使いした。宴酣となつて、正則は、酒杯を固辞する太兵衛に、この大杯で飲むならば褒美は所望次第と強要する。太兵衛は、この上の辞退は武士の恥辱と、即座に大杯三杯を飲みほして、正則が秘蔵する太閤秀吉下賜の名槍日本号を手に、悠々として辞去し、黒田武士の真骨頂を発揮した。今日の黒田節は、この逸話を歌つた筑前今様である。
この像は、彫刻家米治一先生の作で、福岡博多ライオンズクラブが創立五周年を記念して建立し、福岡市に寄贈されたものである。

昭和四十五年五月
福岡市長 阿部源蔵
ヒロカネ謹製
 

博多駅「黒田節像」の銘板より

      酒は呑め呑め 呑むならば
      日本一(ひのもといち)のこの槍を
      呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

この黒田節は、黒田家の猛将、母里太兵衛が福島正則より勧められた大量の酒をすべて飲み干し、約束どおり名槍「日本号」 を受け取ったという話を謡ったものです。 博多駅の像のモデルが母里太兵衛なのかそれとも黒田節を舞う黒田藩士なのか、把握していませんが、 一般的に博多駅の像は「黒田節像」と呼ばれ、「母里太兵衛像」は別に、 中央区西公園の光雲神社(てるもじんじゃ)にたたずんでいます。





















福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【後藤又兵衛(ごとうまたべえ)】
(1560年~1615年)


関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮し召抱えようとする大名は少なかったようで数年間の浪人生活を送ります。 その後「大阪冬の陣・夏の陣」で久々に活躍の場を得た又兵衛は豊臣方の中心武将として戦国最後の戦場で華々しく散る事になります。



このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝