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福岡史伝・幕末・維新
 【真木和泉-禁門の変-(1864年)

久留米水天宮 真木和泉銅像

1863年、8月18日の政変で会津・薩摩の両藩に追われた長州藩は京都を去りますが、長州藩士と共に攘夷活動を行っていた真木和泉も七卿の護衛をし長州へ落ち延びます(七卿落ち)。翌年7月に長州藩は兵を挙げ再び京都へ向いますが、真木和泉も九州を中心とする攘夷志士を率いこの軍に加わります。京都市街では各地で火の手があがり激しい戦いとなりますが、結局は会津・桑名・薩摩に破れ西へ敗走する事になります。その途中、真木和泉の隊は長州へ帰還することを止め天王山に登り陣を取ります。

子母沢寛氏の「新選組始末記」には真木和泉と同士たちの最期が記されていますが、その概要は次の通りです。
「禁門の変」で長州勢の敗色が濃くなると逃げ帰るのを潔しとせず、同士16名と共に天王山へ登ります。 そこへ新選組と会津藩兵が駆けつけると、真木和泉は金色の烏帽子に直垂の姿で山巓(さんてん)に現れ声高に名乗り、朗々と詩を吟じます。 その大胆な態度に、新選組はその姿をただじっと見つめていたといいます。 そして吟じ終わると、真木隊の大砲小銃の射撃が始まります。新選組は射撃が止むまで待ち、山上へ駆け上りますが、 その時、真木隊本営からは焔が上がり同士一同が自決した後だったということです。




















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スポットライト人物伝


【後藤又兵衛(ごとうまたべえ)】
(1560年~1615年)


関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮し召抱えようとする大名は少なかったようで数年間の浪人生活を送ります。 その後「大阪冬の陣・夏の陣」で久々に活躍の場を得た又兵衛は豊臣方の中心武将として戦国最後の戦場で華々しく散る事になります。



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