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福岡史伝・戦国
 【岩屋城の戦い(1586年)

岩屋城の碑

1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められていきます。 8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めます。 秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を目前にした島津義久はこれを拒否し、従弟の島津忠長を筑前に侵攻させます。 この島津の対応に秀吉が激怒したか、ほくそ笑んだかは想像するしかありませんが、 とにかくこの時点で秀吉は徳川家康という最大のライバルの懐柔中で、早急な対応ができない状態でした。
そして筑前では、大友宗麟の家臣、高橋紹運が大宰府の岩屋城で、将兵763名と共に島津軍5万を迎え撃ちました。 戦いは壮絶を極め、城攻めの島津軍は3千以上の犠牲者を出したといわれます。 そしてついに攻撃開始より14日目の7月27日、岩屋城は落ち、紹運と将兵は共に玉砕しました。
島津軍は続いて紹運の次男、統増が守る宝満城を開城させ、長男、立花宗茂の立花山城へ向いました。 しかし宗茂の守る立花山城は堅く、攻め切れずにいたところへ、「秀吉軍の九州上陸」の報を受け、島津軍は南へ向けて撤退を開始します。 この日が8月24日で岩屋城玉砕の約1ヶ月後のことでした。



紹運は岩屋城の戦いで、敵将より降伏を勧められますが、「もし貴殿が攻められる側であったならば、命を惜しみ忠義を捨てて降伏されるのか?」と一蹴にしたそうです。また九州平定後、秀吉は紹運の忠義を「戦国の華」と褒め称えたそうです。人を褒める事が好な人だったようですが、岩屋城の戦いの様子を聞き知った秀吉の心からの褒め言葉だったと想像したく思います。


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スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。



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