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福岡史伝・南北朝・室町
 【長者原の戦い(1362年)

「長者原の戦い」の碑

鎌倉時代の鎮西探題に代わって設置された九州探題には足利一族の一色氏が就くのですが、 「観応の擾乱」が起こると武家方はこの一色氏と筑前国守護の少弐氏の二派に別れ戦うことになります。 この内訌が要因となり、武家方は劣勢となり一色氏は九州を去り、少弐氏は菊池氏を中心とした宮方に大宰府を奪われることになります。 1361年、幕府は九州を取り戻し、政権下に組み込むため斯波氏経(しばうじつね)に九州探題を命じます。 氏経が豊後の高崎山城に入ると、翌年には宮方の菊池武光はそこに兵を向けますが、 その隙を突き氏経の子・松王丸を旗頭とした武家方の兵7000が大宰府攻略ため筑前北部より侵入し長者原に陣を取ります。 そこに菊池勢5000人ほどが駆けつけ攻撃を開始しますが、迎え撃った武家方の勢いが強く、菊池勢は2㎞ほど兵を引きます。 武家方はこれに一息ついていましたが、そこに城越前守(じょうえちぜんのかみ)率いる宮方の新手500の兵が突撃し、 乱戦の中、武家方の中心武将を討ち取ります。 これを契機に宮方は盛り返し、武家方は散々に打ち破られ大敗する結果になりました。


(2014.11.8)



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スポットライト人物伝


【毛利元就(もうりもとなり)】
(1497年~1571年)


主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支援する大内氏残党や尼子氏が毛利の背後を脅かしたため中国へ撤退せざるおえなくなりました。



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