福岡史伝・南北朝・室町 「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。
これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。
この戦いは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本の三大合戦に挙げられるほど大きな戦いとなりました。
少弐頼尚を中心とする北朝側6万と懐良親王を擁する菊池武光が率いる南朝側4万が激突し、両軍あわせて2万5千の死傷者が出たといわれます。
戦いの終わった菊池軍が山隈城の近くの川で、血のついた刀を洗うと川は真っ赤に染まったといわれています。
この事から、この辺りを大刀洗と呼ぶようになりました。これが現在の三井郡大刀洗町になります。
戦いの結果は北朝の少弐頼尚が大宰府に撤退し、南朝軍が勝利しますが、南朝の懐良親王や菊池武光も負傷し一旦肥後に帰還します。
この戦い以後、少弐家は求心力を失い、2年後には菊池武光に大宰府を奪われることになります。 関連記事:筑後川の戦,大原合戦
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