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福岡史伝・南北朝・室町
 【針磨原の戦い(1353年)

1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあってはならない」と起請文を書いたといわれます。 そして2月2日には、大宰府より3㎞ほど南の針磨原で少弐氏の加わった南朝軍が一色の軍を撃破し(針磨原の戦い)、 翌年には再び南朝軍が「姪浜、飯盛の戦い」で一色軍を破り、再起不能となった範氏は長門に逃れます。
その後、九州探題が不在となると少弐頼尚は北朝方に寄り、南北朝の対立が再び表面化してくる事になります。


(2014.11.24)


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スポットライト人物伝


【高場乱(たかばおさむ)】
(1831年~1891年)


男子として育てられた男装の女医で、かつ教育者。金印の鑑定をした亀井南冥の学派の塾に学び、後に興志塾を起します。 「福岡の変」には塾生から多く者が参加しています。そして1889年に教え子の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈重信暗殺未遂事件をおこし自決すると、 来島の死を嘆きながらも「匹夫の勇」と厳しい言葉を投げかけています。



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