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福岡史伝・鎌倉
 【文永の役(1274年)

筥崎八幡宮の「蒙古軍船碇石」

1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、松浦と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。 その数、兵3万、軍船900といわれています。
19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の軍を上陸させ陸路、博多方面へ侵攻させます。 翌20日には軍船を博多港北西周辺に集結させ、室見川河口付近から上陸を開始します。そして陸路今津より進んできた軍と共に、日本軍を攻撃圧倒し、赤坂(市街地西部)まで押し寄せました。
また元軍の別働隊が箱崎方面(博多の東方)へ上陸し、箱崎八幡宮一帯へ火をかけ町を混乱に陥れました。守りきれなくなった日本軍は態勢を立て直すため、とりあえず水城まで撤退したといわれます。
翌日、元軍の大宰府侵攻かと思われましたが、夜が明けると元軍は博多湾より消え去っていました。


(2011.5.14)


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スポットライト人物伝


【月形洗蔵(つきがたせんぞう)】
(1828年~1865年)


儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。



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