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福岡史伝・奈良
 【奈良時代の権力闘争(716年)

奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。

729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄弟(藤原鎌足の孫)との政治的軋轢が原因ではと言われています。
その四兄弟が737年に流行病で次々に死去すると、皇族の橘諸兄(たちばなもろえ)が右大臣となり政権を握ります。 唐の留学より帰国した玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびまきび)はその元で改革を行ったものと思われます。 それとは逆に藤原四兄弟の三男・宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)は大宰府に左遷されます。 そして現政権に不満を募らせた広嗣は玄昉と吉備真備を弾劾する兵を挙げますが、朝廷軍に敗れ斬られます。
その後も権力闘争は収束せず5年後には、玄昉が観世音寺の造営を名目に筑紫に左遷され、翌年に死去します。そして、またその5年後には、吉備真備が筑前守に左遷されます。

この間、藤原四兄弟の長男・武智麻呂(むちまろ)の息子・藤原仲麻呂(なかまろ)と諸兄の息子・橘奈良麻呂(ならまろ)は次々に階位を上げて行きます。特に仲麻呂の出世は驚異的で、この10年で正五位下から従二位までに登り詰めています。

一方、大宰府に左遷された吉備真備は、大伴古麻呂(おおともこまろ)と共に遣唐副使として唐に渡り遣唐使の役目を果たします。そして大伴古麻呂は鑑真和上を伴い帰国しますが、吉備真備もこの鑑真和上の来日に関わったのではないかと言われています。

755年、橘諸兄の家人が諸兄の太上天皇(聖武天皇)に対する失言を訴え出たため、翌年に諸兄は左大臣を辞職し、翌々年には死去します。諸兄の失脚で藤原仲麻呂が政権を手中に収めますが、これに諸兄の息子・橘奈良麻呂は仲麻呂を退ける計画を立てます。 しかし、事前に事が洩れ捕縛され、遣唐副使だった大伴古麻呂らと共に拷問の末に死亡します。
仇敵を一掃した藤原仲麻呂は従兄妹に当たる孝謙天皇を後ろ盾に権力を確かなものとしますが、764年に孝謙天皇が寵愛する僧・道鏡が政治に影響を及ぼし出すとこれを除こうと兵を起します。 しかし、近江で朝廷軍に敗れ斬られます。この時、孝謙天皇より討伐を命じられた吉備真備は仲麻呂が逃れる進路を予測し兵を配し、乱を早期に平定する功があったといわれます。

道鏡はその2年後に法王の地位に就き、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、770年、称徳天皇(孝謙天皇)が崩御すると、皇太子の白壁王により下野の薬師寺(東戒壇)に左遷されることになります。

775年、この時代の熾烈な権力闘争の渦中にありながら吉備真備は83歳の天寿を全うします。早い時期に大宰府に左遷され政争に巻き込まれる機会が少なかったのが真備に幸いしたのかもしれません。
晩年になって彼はこの権力闘争の時代を振り返り、何を考え、何を思ったのでしょうか・・・・・。





■奈良時代の権力闘争■



716年 2月10日玄昉と下道真備が阿倍仲麻呂と共に唐に渡る。 玄宗皇帝は玄昉を尊んで紫の袈裟を着用させる。

729年 2月10日長屋王の変が起こる。(藤原氏との政争が原因とされる)
3月4日葛城王(橘諸兄)が正四位下に任じられる。

735年 2月7日唐の留学から帰国した玄昉は多くの経典や仏像を持ち帰る。同じく下道真備は天文書や天文測定器や楽器や兵器などを持ち帰る。

736年 2月7日玄昉に百戸と童子8人を与えられる。

737年 4月17日藤原不比人の次男・房前(ふささき、正三位)が死去する。
7月13日不比人の四男・麻呂(まろ、従三位)が死去する。
7月25日不比人の長男・武智麻呂(むちまろ・正一位)が死去する。
8月5日不比人の三男・宇合(うまかい・正三位)が死去する。
8月26日玄昉が僧正に任じられる。
8月28日藤原宇合の長男・広嗣が従五位下に叙せられる。
12月27日玄昉が聖武天皇の母の藤原宮子に謁見し病を癒す。
下道(吉備)真備が従五位上に叙せられる。

738年 1月13日橘諸兄が正三位に叙せられ、右大臣に任じられる。
7月10日大伴子虫(おおともこむし)が中臣東人(なかとみのあずまびと)と囲碁の最中に東人が長屋王を陥れた事を知り、その場で東人を斬り殺す。
12月4日藤原広嗣が大宰少弐に任じられる。(左遷とされる)

740年 1月13日藤原仲麻呂が正五位下に叙せられる。
5月10日橘奈良麻呂が従五位下に叙せられる。
8月29日大宰少弐の藤原広嗣が僧正・玄昉と下道真備を弾劾し追放を求める。
9月3日藤原広嗣が大宰府で兵を挙げたため、聖武天皇は討伐を命じる。(藤原広嗣の乱)
9月4日橘諸兄が討伐軍を出発させる。
10月9日板櫃川の戦い。朝廷の勅使に大義がないことを指摘され藤原広嗣は兵を引く。
11月3日藤原広嗣が捕縛され、二日後に斬刑に処される。
11月21日橘諸兄が正二位に叙され、藤原仲麻呂が正五位下に叙される。

742年 1月5日大宰府が廃止される。

743年 5月5日橘諸兄が従一位に、藤原仲麻呂が従四位上に、下道真備が従四位下に、橘奈良麻呂が五位上に叙せられる。
12月26日筑紫に鎮西府が置かれる。

745年 1月7日藤原仲麻呂が正四位上に叙せられる。
1月21日行基法師が大僧正に任じられる。
6月5日大宰府が復活する。
11月2日玄昉法師が筑紫の観世音寺の造営を名目とし、左遷される。
11月17日玄昉の財物が没収される。

746年 4月22日藤原仲麻呂が従三位に叙せられる。
6月18日玄昉が観世音寺にて死去。天皇に寵愛され、僧侶に反する行動が多かったために人々より憎まれたといわれ、世間では藤原広嗣の祟りと噂される。
10月19日下道真備が吉備姓を賜る。

747年 1月20日橘奈良麻呂が正五位下に叙せられる。

748年 3月22日藤原仲麻呂が正三位に叙せられる。

749年 2月2日大僧正・行基和尚が死去。
4月1日橘奈良麻呂が従四位上に叙せられる。
4月14日橘諸兄が正一位に叙せられる。
7月2日孝謙天皇が即位する。
吉備真備が従四位上に叙せられる。

750年 1月10日吉備真備が筑前守に左遷される。
1月16日藤原仲麻呂が従二位に叙せられる。

751年 11月7日吉備真備が遣唐使の副使に任命される。

753年 12月7日吉備真備の船が屋久島に着く。

754年 1月16日橘奈良麻呂が正四位下に叙せられる。
大伴古麻呂が唐僧・鑑真を伴って帰国。吉備真備の船が紀伊国に漂着(日付は不明)。
4月7日帰国した大伴古麻呂と吉備真備が正四位下に叙せられる。

755年 11月橘諸兄の家人が、諸兄に太上天皇(聖武天皇)に対する無礼な発言があった事を訴え出る。

756年 2月2日左大臣で正一位の橘諸兄が辞職。
5月2日太上天皇(聖武天皇)が崩御。
6月22日大宰大弐の吉備真備が怡土城の築城開始。

757年 1月6日橘諸兄が死去。
6月28日橘奈良麻呂の(藤原仲麻呂を退けるための)謀議が発覚する。
7月4日橘奈良麻呂、大伴古麻呂らが捕縛、拷問を受け自白。首謀者は拷問で死亡する。(橘奈良麻呂の乱)

758年 7月4日藤原仲麻呂に恵美押勝の名が与えられる。
8月1日淳仁天皇が即位する。
12月10日吉備真備に外冦に備えるよう命が出される。(唐では案禄山の乱が起こっていたため)

760年 7月4日藤原仲麻呂が従一位に叙せられる。
11月10日官吏6名を大宰府に遣わし、吉備真備より諸葛亮の「八陳」・孫子の「九地」などを学ばせる。

762年 5月23日称徳天皇と淳仁天皇の仲に亀裂。

763年 5月6日大和上(だいわじょう)の鑑真が死去。
9月8日称徳天皇が興福寺・少僧都(しょうそうず)の慈訓法師の任を解き、道鏡法師を少僧都に就ける。

764年 1月21日吉備真備が造東大寺長官に任命される。真備はこの頃に大宰府より中央に戻ったと思われる。
9月11日藤原仲麻呂が道鏡法師を除くために乱を起こす。
称徳天皇が吉備真備に従三位を授ける。藤原仲麻呂は近江から越前に向かう。
9月18日藤原仲麻呂は琵琶湖西岸で捕らえられ家族共々斬られる。
9月20日称徳天皇が道鏡禅師を大臣禅師に任じる。
10月9日淳仁天皇が淡路に流される。

765年 10月22日淳仁天皇が配所より逃げるが、連れ戻され翌日に薨じる。
閏10月2日道鏡を太政大臣禅師に任じる。

766年 10月20日道鏡が法王に位に就く。

768年 2月28日吉備真備が築城に着手した怡土城(糸島市高祖山)が完成する。

770年 8月4日称徳天皇が崩御。
8月21日皇太子の白壁王が道鏡を下野の薬師寺の左遷する。
10月1日白壁王が光仁天皇として即位する。

772年 4月7日下野国より「薬師寺別当の道鏡が死去」との言上。

775年 10月2日正二位で前右大臣の吉備真備が83歳で死去。

色の文字で書かれた部分は筑紫に関連する出来事

-参考 「続日本紀」(宇治谷孟氏/講談社学術文庫)-





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スポットライト人物伝


【菊池武光(きくちたけみつ)】
(1319年~1373年)


菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前へ侵攻します。 この時、筑前では北朝方の少弐頼尚と九州探題・一色範氏との間で内部抗争が起こっていま.....[全文を表示]



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