福岡史伝・奈良 天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、
反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。
藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、
藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の勢いが強く結局、大宰府に左遷されます。
大宰府に入った広嗣はそこで挙兵しますが、小倉の板櫃川(いたびつがわ)で朝廷軍に破れ、朝鮮半島へ逃れようとします。
しかし嵐に遭い果たせず値嘉島長野村(五島?)に潜伏しているところを捕らえれ唐津で斬られました。
これが「藤原広嗣の乱」です。 関連記事:藤原広嗣,佐伯常人
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