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福岡史伝・奈良
 【藤原広嗣の乱(740年)

天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、 反藤原氏の橘諸兄(たちばなのもろえ)が権力を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、 藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の勢いが強く結局、大宰府に左遷されます。 大宰府に入った広嗣はそこで挙兵しますが、小倉の板櫃川(いたびつがわ)で朝廷軍に破れ、朝鮮半島へ逃れようとします。 しかし嵐に遭い果たせず値嘉島長野村(五島?)に潜伏しているところを捕らえれ唐津で斬られました。 これが「藤原広嗣の乱」です。
その十数年後、藤原四兄弟の長男武智麻呂(むちまろ)の息子、藤原仲麻呂が権力を握ると、756年橘諸兄は失脚し、 翌年死去します。その年諸兄の息子、奈良麻呂も謀反の罪で捕らえられ獄死することになります。

蛇足になりますが、この藤原仲麻呂自身もこの8年後の764年、 孝謙上皇に取り入った僧、弓削道鏡を除くため謀反を起こし一家共々斬られることになります。

再び蛇足になりますが、この道鏡も770年に後ろ楯であった称徳天皇(孝謙上皇)が崩御すると力を失い「東戒壇」の下野薬師寺に左遷され、 2年後にその地で死去します。


(2011.6.9)


















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スポットライト人物伝


【古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)】
(1833年~1869年)


筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に.....[全文を表示]




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