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福岡史伝・飛鳥
 【壬申の乱-筑紫-(672年)

天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が東国に向かい、挙兵の動きを示します。 時の都の大津では不穏な空気が流れ人々は避難の準備を始めます。 天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)はこれに対し、地方官や豪族たちに援軍を出させるために使者を向かわせるのですが、その際に「筑紫大宰と吉備国守(きびこくのかみ)の二人は大海人皇子に近い人物なので、命令に従わなければ、その場で斬るように」と使者へ指示をします。
使者は吉備に行き、吉備国守の刀をはずさせておき、命令書を渡す振りをして斬り伏せます。 次に筑紫では別の使者・佐伯連男(さえきのむらじおとこ)が筑紫大宰の栗隈王(くるくまのおおきみ)に兵を出すよう命令します。しかし栗隈王は「筑紫の兵は元々、外敵への備えで内賊を抑えるための兵ではありません。命に従って兵を出せば国が無防備となり、外敵より攻め込まれる事もありえます。そうなってからでは、私を何百回 斬刑に処すとも、後の祭りです。」と援軍を断ります。 佐伯連男は大友皇子の命に従い栗隈王を斬ろうとしますが、栗隈王の両脇には大刀を佩いた二人の息子が立ち離れようとしなかったため、任務を果たせず筑紫を去りました。
この「壬申の乱」はひと月程で終わります。戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥に移り、翌年2月に即位の儀をとり行います。 これが天武天皇です。 そして栗隈王は乱の3年後に兵政長官に任命される事になります。



この戦いに敗れ自害した大友皇子は、正式に即位した記録がなかったため歴代天皇に数えられていませんでしたが、明治天皇によって諡号を送られ弘文天皇とされました。
(2014.10.18)


















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スポットライト人物伝


【毛利勝永(もうりかつなが)】
(1578年~1915年)


毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城を攻め落しますが、最終的に西軍は敗北します。この敗戦で毛利勝信、勝永親子は小倉の.....[全文を表示]




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