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福岡史伝・弥生・古墳
 【熊襲の抵抗(300年代)

浮羽島(うきは市)

歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四道将軍」を発し倭国統一を目指します。これが西暦200年代後半の事だと思われます。「四道将軍」の四道とは北陸道、東海道、山陽道、丹波の四方面のことで、各将軍は共和国諸国の大和政権への帰属を確認しながら進んでいったものと思われます。一部抵抗勢力もあったと思われますが元々倭国の勢力範囲まではそれ程、苦労することもなく進んだと思われます。ただ出雲では様々な懐柔策が必要だったようで、そのことが実感できる逸話がいくつか残っています。これが崇神天皇の子、垂仁天皇の時代に当たります。
その後、軍は九州に入り、小部族との衝突はあったものの九州北部統一まではおおまか予定どおり進みます。しかし日向に進むと熊襲が徹底的な抵抗を示します。これが崇神天皇の孫の景行天皇の時代です。景行天皇とその息子、日本武尊(やまとたけるのみこと)は自ら熊襲討伐に出向き成果を収めたそうですが、日本武尊の息子、仲哀天皇の頃も熊襲は健在だったようで、仲哀天皇も熊襲討伐に意欲を燃やしたようです。そして「日本書紀」では、仲哀天皇の没後、神功皇后の時代に熊襲が服従したと記載されています。


■日本書紀に記される景行天皇の九州遠征

景行12年8月15日熊襲が貢物を送らなかったため筑紫に向かう。

景行12年9月5日周芳(すおう)の娑麼(さば・山口県防府市佐波)に着く。

景行12年9月豊前長峡県(ながおのあがた・行橋市長尾)に着き行宮をたてる。

景行12年10月碩田国(おおきたのくに・大分市)に着き、来田見邑(きたみむら・竹田市久住)に仮の宮をたて禰疑野(ねぎの・竹田市南生地区)の土蜘蛛(土豪)を滅ぼす。

景行12年11月日向国へ着き行宮・高屋宮(西都市高屋)をたてる。

景行12年12月熊襲攻略を開始。謀で熊襲・八十梟帥(やそたける)を討つ。

景行13年5月熊襲を平定し、その後5年ほど高屋宮に滞在。

景行17年3月12日子湯県(西都市)に遊ぶ。

景行18年3月大和に戻るため高屋宮を出発し、夷守(ひなもり・小林市)に着く。

景行18年4月3日熊県(人吉市)に着き、来訪しなかった弟熊(おとくま)を討つ。

景行18年4月11日葦北の水島(球磨川の河口にある小島)にて宿泊。

景行18年5月1日海路、八代に着く。

景行18年6月3日高来県(諫早市高来)から玉杵名邑(玉名市)に着き、土蜘蛛・津?(つつら)を討つ。

景行18年6月16日阿蘇国(阿蘇市)に着く。

景行18年7月4日筑後国の三毛(大牟田市三池)に着く。

景行18年7月7日八女県(八女市)に着く。

景行18年8月的邑(いくはのむら・うきは市)に着く。

景行19年9月20日大和に帰還する。


これらの中央集権化の動きは「日本書紀」に記載されているもので、神話と見る向きもあるようです。

(2011.6.26)


















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スポットライト人物伝


【一色範氏(いっしきのりうじ)】
(?~1369年)


「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈・金隈の戦い」で少弐氏と、1353年「針摺原の戦い」で菊池・少弐氏の連合軍と争います。 しかし「針摺.....[全文を表示]



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