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一夜漬け福岡史
 【奈良時代-権力闘争と鑑真の来日-

戒壇院建立

奈良時代には大和政権内で、藤原氏と反藤原氏の間で派閥間対立が起こります。
737年、天然痘で当時の有力者の藤原四兄弟(藤原鎌足の孫たち)が次々に死去すると、橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握り、唐留学僧・玄昉(げんぼう)や唐留学生・吉備真備(きびのまきび)を抜擢し、脱・藤原氏の体勢を整えます。 これに反発して740年、大宰府に左遷された藤原広嗣(ひろつぐ)が「藤原広嗣の乱」を起こします。 しかし乱は二ヶ月程で鎮圧され、藤原広嗣は唐津で斬られました。
その後も大和政権内での権力闘争は続き、5年後には玄昉が観世音寺へ、10年後には吉備真備が筑前守へ左遷されます。玄昉は左遷の翌年に原因不明で死去しますが、吉備真備は2年後に遣唐副使として唐へ渡り、帰国時には唐の高僧・鑑真の来日に関わったといわれています。 この時に来日した鑑真和上は観世音寺に入り、現在の戒壇院の辺りで日本初の受戒を行います。
吉備真備はこの数年後に大和に戻り、重職を歴任します。そして以前に吉備真備の左遷を画策した藤原仲麻呂が乱を起すと、孝謙上皇より討伐を命じられています。


(2012.11.25)


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スポットライト人物伝


【佐伯連男(さえきのむらじおとこ)】
(?~?)


「壬申の乱(672年)」で大友皇子の意を受け筑紫に派遣され、筑紫率の栗隈王に援軍を出すよう命令した人物です。栗隈王がこれを拒否したため佐伯連男は栗隈王を斬ろうとしますが、護衛が栗隈王のそばから離れようとしなかったため果たせず筑紫を去りました。
想像になりますが、この人物は「乙巳の変(645年)」に関わった佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)の近親者と思われます。




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