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 【「漢委奴国王」印は本物?(1784年)-なぬ~金印には贋物説があった?-

金印イメージ図

江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっても仕方のない事なのかもしれません。

当時、福岡藩では「修猷(しゅうゆう)館」と「甘棠(かんとう)館」の二つの藩校を立ち上げる時期にあたり、金印を鑑定した亀井南冥が、館長を務める甘棠館の名声を少しでも高めるために「金印発見」を仕組んだのではないかといった疑問を持つ者が現れ、贋物説が真しやかに広まります。そして、この贋物説は最近まで討論され続けています。

贋物説を主張する側の一つの理由としては蛇鈕(じゃちゅう・蛇の形が刻まれた把手部)が中国で発見されている他の金印の中に見当たらないといった事がありましたが、1956年に中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「滇王之印(てんおうのいん)」が発見され、この疑問に関しては一応の解決をみます。
また「漢委奴国王」印の印面の一辺が2.3㎝強でこれが後漢初期の一寸であることが指摘され、これも「漢委奴国王」印が本物である根拠とされています。
そして1981年には江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見されます。この印は西暦58年に光武帝の第九子・劉荊が廣陵王に封じられた際に受領した王印とされます。把手は蛇鈕ではなく亀鈕でしたが、「漢委奴国王」印と同一工房で作成されたのではないかとの説が出されるほど多くの類似点が指摘されています。
光武帝より奴国王に金印が送られたのが西暦57年の事ですので、「廣陵王璽」と「漢委奴国王」印が同じ技術で制作されたとなると、光武帝より送られた金印が「漢委奴国王」印である可能性が非常に高くなるのです。

これらの発見で、現在では「漢委奴国王」印は光武帝から送られた本物にまず間違いないのでは、という判断が主流となっています。しかし贋物説はいまだにくすぶり続けているのが現状の様です。
亀井南冥自身は贋物説に対して何も語らなかったようですが、作為的なものが無かったとした場合、南冥の憤慨はいかばかりだったかと同情せずにはいられません。

-参考 「『漢委奴国王』金印誕生時空論」(鈴木勉氏/雄山閣)-



福岡市博物館のページには鈕(ちゅう)ついて次のような説明がなされています。「漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。」(原文のまま)


















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スポットライト人物伝


【栗隈王(くるくまおう)】
(?~676年)


「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたこ.....[全文を表示]



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