『福岡史伝』はリニューアルしました。新ページはこちらからどうぞ!!

旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。



Mousegallery






Fアイテム
 【茶器「楢柴」の事(戦国時代)-博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器-

豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。
秋月氏の窮地を救ったこの茶器「楢柴」は元々、博多の豪商・嶋井宗室が所有したもので、豊臣秀吉や大友宗麟から所望されるも譲らなかったといわれる一品です。秋月種実も「楢柴」をどうしても手中に収めたく使者を幾度となく送りますが、宗室はどうしても手放そうとしなかったために、遂に武力で奪おうとします。これに宗室はとうとう諦め、「楢柴」を譲り渡すことにします。種実の使者は宗室邸に来訪し、大豆百俵と引き換えに「楢柴」を持ち帰りますが、宗室は使者が去った後に、この引渡しに使用した部屋を打ち壊したといわれています。混乱期の商人たちは物を右から左へ動かすだけで巨額な利を得ていたといったイメージが強いのですが、実際は戦国の豪商たちも乱世を生き抜くのが容易でなかったことを伝える逸話だと思われます。

その後「楢柴」は豊臣家から徳川家へと渡りますが、1657年の明暦の江戸大火で行方知れずとなったと言うことです。

-参考「古代の都市・博多」(朝日新聞福岡総局編/葦書房)-




関連記事:楢柴

















福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【玄昉(げんぼう)】
(?~746年)


藤原氏の有力者たちが当時に流行した天然痘で次々に死去すると橘諸兄(たちばなもろえ)が権力を担い脱藤原氏の体制を目指します。 唐留学僧・玄昉(げんぼう)はその諸兄に抜擢され僧正に任じられますが大和政権での派閥抗争は収束せず、 8年後には自らが観世音寺へ左遷され翌年には原因不明で死去する事になります。現在、戒壇院の北側に玄昉の墓が残っています。



このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝