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余談
 【浅野四郎左衛門の事

先日、「お綱門の事」の記事を書いていて思った事です。
事件後にお綱の夫・浅野四郎左衛門には陰に陽に批判が殺到し著しく藩内での立場を悪くしたのではないかと想像され、名前も知らぬ様な他の藩士から冷たい視線で睨まれたり、身に覚えのない噂を流されたりと、藩主から気に入られた若手藩士だっただけに逆に、風当たりが強くなったのではないでしょうか、この事件からしばらくして四郎左衛門自身も熱病で他界したと伝わっています。
なぜ四郎左衛門は藩主の奥方から疎まれた芸妓を城内の邸宅に住まわせてしまったのか・・・、本気で芸妓へ入れ込んでしまったのか・・・、それとも主君へ対する気配りだったのか・・・、はかない疑問が残ります。お綱のやるせない心情は計り知れないもので、子供達の事を思うと四郎左衛門の罪は洗い流せるものではないのでしょうが、主君へ対する四郎左衛門の気遣いを想像すると、この人にも同情の余地が残る様な気がしてなりません・・・。




















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スポットライト人物伝


【小早川秀秋(こばやかわひであき)】
(1582年~1602年)


豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とともに苦悩の日々を送ったと想像されます。 そして二年後には若くして死去します。 この秀秋の「関ヶ原」での行動には過去の出来事と戦いに至るまでの流れより同.....[全文を表示]



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