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わかっていない事
 【「筑前宮崎村」はどこにある?-福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?-

熊本県荒尾市 宮崎兄弟の生家

福岡の宮崎兄弟といえば「秋月の乱」に中心人物として参加した宮崎車之助、今村百八郎、宮崎哲之助の三兄弟の事ですが、熊本にも明治期に宮崎兄弟が登場します。 その次男の宮崎八郎は中江兆民らと親交を持ち自由民権活動に奔走、そして西南戦争で西郷軍に参加し八代で戦死します。 また弟たち民蔵、彌蔵、寅蔵(滔天)らは孫文を支援し中国革命に深くかかわります。 孫文も訪れたことのあるこの兄弟たちの育った生家は現在も荒尾市に残り観光名所となっています。
ところでこの宮崎兄弟の生家の案内板には「宮崎家の祖は筑前御笠郡宮崎村の住人で・・・」 と宮崎家の祖が筑前にあったことが記載されています。 しかしこの「筑前御笠郡宮崎村」は現代地図や筑前古地図をいくら探してみてもそれらしい地名が見つからず、また貝原益軒の「筑前国続風土記」にも宮崎村は登場しないのです。 ただ現在の筑前町の依井(よりい)には字(あざ)宮崎という住所があり、もしかしたらここが八郎や滔天ら兄弟の祖が住んだ宮崎村なのかもしれません。 そしてこの依井より北東へ6㎞ほどのところに秋月城があり、依井は黒田秋月藩の領内だったということから「秋月の乱」の中心人物・宮崎兄弟と荒尾の宮崎兄弟は同族の宮崎氏だった可能性が出てくるのです。 ただし筑前古地図ではこの筑前町依井という土地は「御笠郡」ではなく隣の「夜須郡」になっており、宮崎兄弟の生家の案内板の内容と異なっています。 「筑前、肥後の宮崎兄弟同族説」はなんの証拠もないあくまでも想像の域を出ない話なのですが、真実を追う事とは別に、このような想像力を逞しくして考える事が歴史を探求する原動力となるのかもしれません。



余談になりますが、ここで取り上げた宮崎滔天は、飯塚の石炭王・伊藤伝右衛門の妻・柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介の父親になります。
この白蓮事件で絶縁状を受けた伊藤伝右衛門は「末代まで一言の弁明も無用」と2人の仲を妨げるようなことはありませんでした。そして白蓮が10年ほど生活した旧伊藤伝右衛門邸は現在では飯塚市の観光名所となっています。


















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スポットライト人物伝


【栗隈王(くるくまおう)】
(?~676年)


「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたこ.....[全文を表示]



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