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わかっていない事
 【煬帝の返書の行方は?-小野妹子、返書の提出できず!-

中国の南北朝の時代の混乱が終わりを告げ、隋が中国をほぼ統一すると大和朝廷は遣隋使を派遣します。 遣隋使の船は出発時も帰還の際も那の大津(博多より2㎞ほど西方)を寄港地としていたようです。 607年、第二回遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋に届けますが、この内容を知った隋の皇帝・煬帝(ようだい)は取り次いだ者に「この様な書状は二度と持って来ないように」と不機嫌になったといいます。 そして煬帝は返書を小野妹子に託しますが、帰国した妹子は返書を提出せず「返書は百済を通った際に百済人によって奪われました」と報告します。 これは隋の返書が好意的なものではなかったため妹子が自ら破棄したのではないかと考えられているのですが、この返書にはいったい何が書かれていたのか今となっては歴史の謎となっています。

































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スポットライト人物伝


【一色範氏(いっしきのりうじ)】
(?~1369年)


「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈・金隈の戦い」で少弐氏と、1353年「針摺原の戦い」で菊池・少弐氏の連合軍と争います。 しかし「針摺.....[全文を表示]



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