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わかっていない事
 【煬帝の返書の行方は?-小野妹子、返書の提出できず!-

中国の南北朝の時代の混乱が終わりを告げ、隋が中国をほぼ統一すると大和朝廷は遣隋使を派遣します。 遣隋使の船は出発時も帰還の際も那の大津(博多より2㎞ほど西方)を寄港地としていたようです。 607年、第二回遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋に届けますが、この内容を知った隋の皇帝・煬帝(ようだい)は取り次いだ者に「この様な書状は二度と持って来ないように」と不機嫌になったといいます。 そして煬帝は返書を小野妹子に託しますが、帰国した妹子は返書を提出せず「返書は百済を通った際に百済人によって奪われました」と報告します。 これは隋の返書が好意的なものではなかったため妹子が自ら破棄したのではないかと考えられているのですが、この返書にはいったい何が書かれていたのか今となっては歴史の謎となっています。




















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スポットライト人物伝


【真木和泉(まきいずみ)】
(1813年~1864年)


久留米藩の尊皇攘夷の志士で攘夷派の公卿に強い影響力を持ちますが、 「八月十八日の政変」で長州藩が京都を追われると長州派の七卿に下関まで同行します(「七卿落ち」)。 そして翌年には長州軍の一部隊として「禁門の変」に参戦しますが、 戦況が不利になると天王山に登り同士16名と共に自刃し志半ばで一生を終えることになります。



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