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わかっていない事
 【近江毛野の役職は?-「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?-

527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます。 日本書紀の継体記によると行く手を塞いだ磐井は近江毛野に「お前は今は使者として来ているが、俺たちは昔、肩や肘をすれ合わしながら同じ釜の飯を喰った仲だ。急に王の使者と言われても『はいそうですか』と簡単には従えない」といった内容を大声で言い放ったといいます。 不思議なのはここで近江毛野は「使者」となっている事です。兵6万を率いた者を普通は使者とは呼びません。このことより近江毛野は6万の兵を率いたのではなく、兵6万を集めていたのではと疑問が湧いてきます。実際のところ近江毛野は6万の兵を率いたにも関わらず、出兵命令を拒否した磐井と一戦交えたという記述が日本書紀には見当たらないのです。
あくまでも想像の域を出ないのですが、近江毛野は若かりし日に朝鮮で共に戦った戦友の磐井に朝鮮出兵の兵を出すよう命令しますが、現状の朝鮮半島での形勢不利を身をもって知っている磐井は出兵に理がないことを説き、これを拒否します。近江毛野は当然この件を大和に伝えますが、継体天皇はこれを新羅と結んだ磐井の反抗と受け取り、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し磐井を討った。という流れが思い浮かびます。ちなみに筑後国風土記には「突然官軍が襲ってきた」と記されているそうです。




















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スポットライト人物伝


【秋月種実(あきづきたねざね)】
(1548年~1596年)


父親の秋月文種を大友宗麟の配下、戸次鑑連(べっきあきつら)に討たれたため毛利元就の元に身を寄せます。 そして種実は元就の協力を得てを秋月に帰還し大友氏へ対し抵抗の狼煙を挙げます。 1567年の「休松の戦い」では父の仇・戸次鑑連に奇襲をかけ大混乱に落としいれ一矢報います。 種実は大の大友嫌いだったようで、毛利元就が筑前より撤退すると次に島津氏に属し大友氏に徹底抗戦します。 しかし豊臣秀吉の大軍が大.....[全文を表示]



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