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意外な話
 【福岡にも長城があった!(664年)-グーグルアースでも見れる「水城」跡-

中央やや左側に斜めに走る森が水城跡です

664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として四王寺山から那珂川方面まで土塁城壁を築きました。土塁の外側(博多湾側)には濠を堀り水を引きましたが、 この水濠が「水城」と呼ばれる理由のようです。また長さは10キロ程の長さがあったと思われ、現在でもYahoo地図、グーグールマップ、グーグルアースなどの航空写真でこの「水城」跡の一部が確認できます。
幸いに唐、新羅の連合軍の九州進攻はなくこの時「水城」は役に立つことはありませんでしたが、この時代より約500年後の1回目の元寇「文永の役」では蒙古軍に不利な戦いを強いられた武士団が「水城」まで撤退して態勢を立て直したといわれています。






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スポットライト人物伝


【栗隈王(くるくまおう)】
(?~676年)


「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたこ.....[全文を表示]



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