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意外な話 664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として四王寺山から那珂川方面まで土塁城壁を築きました。土塁の外側(博多湾側)には濠を堀り水を引きましたが、
この水濠が「水城」と呼ばれる理由のようです。また長さは10キロ程の長さがあったと思われ、現在でもYahoo地図、グーグールマップ、グーグルアースなどの航空写真でこの「水城」跡の一部が確認できます。 関連記事:水城
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