「帆柱石」伝説とは? (古墳時代)

-大木が石化した珪化木- 東区名島の海岸には「帆柱石」と呼ばれる。円柱形の化石があり国の天然記念物に指定されています。この石のネーミングは「神功皇后が三韓出兵の際に使用した軍船の帆柱が化石になった」という伝説から採られています。 実際のところは三千数百万年前の樹木が化石化したも [...]


夜に光を放つ石「魚眼精」 (飛鳥時代)

-願いを叶える如意宝珠- 中国の正史「隋書」の倭国の項には次のように書かれています。 「阿蘇山有り。故なく火起こりその石は天に接す。俗をもって異と為し、因って祷祭を行う。如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也。」 (阿蘇山という [...]


筑紫に置かれた「漏刻」とは? (飛鳥時代)

-中大兄皇子の水時計研究- 漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという [...]


博多が初の「透頂香」とは!? (1369年)

-「ういろう」とはブランド名?- 「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京都西洞院に邸宅を賜ったが、その子孫が代々久しく博多と京都に住んで透頂香の製造法を [...]


「博多べい」ってどんな塀? (1587年)

-戦乱で出た瓦礫の処分方法は?- 九州を平定した豊臣秀吉は戦災で荒廃した博多を復興するため「博多町割り」を行います。 しかし新しい町並みを造るにあたって頭を悩ましたのが、戦災後の街中に残る大量の瓦礫でした。そこで博多の人々はこの瓦礫を新しく建てる塀に埋め込みました。これを「博多 [...]


「日本号」ってなに? (1596年)

-戦国史を背負う名槍- 「日本号」とは、大杯になみなみと注がれた酒を飲み干した母里太兵衛に福島正則が贈った名槍の名前です。 この槍は、元々は天皇家の所蔵で足利義昭へ下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、母里太兵衛と渡ります。 その後に朝鮮の役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ [...]


茶器「楢柴」の事 (戦国時代)

-博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器- 豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受 [...]


小倉碑文とは? (江戸時代)

-宮本武蔵の碑- 小倉碑文は小倉藩家老の宮本伊織が養父・武蔵の事蹟を残すために小倉・手向山(たむけやま)に建立した石碑になります。ここには六十数回に及ぶ武蔵の決闘の中から六つの決闘の事が記載されています。歴史的に見てすべてが事実なのか疑問視される点もあるようですが、武蔵がただ者 [...]


太宰府天満宮の「麒麟像」 (1852年)

-トーマス・グラバーと麒麟像- 太宰府天満宮の境内には、「麒麟像」があります。私も子供の頃からその像を知っていましたが、単なる写実性の高い動物像だと思っていました。 学生の頃にこれが中国の空想上の動物「麒麟」だと知りましたが、その写実性?の高さから、西洋美術を学んだ芸術家に依る [...]


「平野國臣紙撚文書」とは? (1862年)

-筆がなけば紙で書く- 平野國臣は西郷隆盛、真木和泉の他、「池田屋事変」に斃れた宮部鼎蔵、新選組の元をつくった策謀の士、清川八郎、当代随一の開明家・佐久間象山を暗殺した過激攘夷の志士、川上彦斎などとも交わりをもち、当時も名の知れた討幕の志士でした。 1863年「生野の変」で挙兵 [...]


「漢委奴国王」印は本物? (1784年)

-なぬ~金印には贋物説があった?- 江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっても仕方のない事なのかもしれません。 当時、福岡藩では「修猷(しゅうゆう)館」 [...]


中山鹿之介の陣鐘? (明治時代)

-国宝・西光寺の梵鐘- 明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江 [...]