源平合戦後の九州 (1185年~)

「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家方の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身となります。 そして九州には源頼朝が武藤資頼(すけより)、大友能直(よしなお)、島津忠久(ただひさ)を派遣し、武藤氏は九州北西部(現在の福岡北部、佐賀、長崎)、大友氏が九州北東部(現在 [...]


文永の役 (1274年)

1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、唐津と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。その数、兵3万、軍船900といわれています。 19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の軍を上陸させ陸路、博多方面へ侵攻させます。翌20日には軍船を [...]


弘安の役 (1281年)

「文永の役」から6年後の1281年6月、元軍は二手に別れて侵攻してきました。東路軍は元、高麗の兵4万、江南軍は元に降伏した南宋の兵10万、総数14万の兵は「文永の役」の5倍に近い数です。 6月5日にまずは主力の東路軍が博多湾に現われますが、浜辺には延々と防塁が築かれ上陸可能な場所 [...]


岩門合戦-霜月騒動- (1285年)

「弘安の役」から3年後の1284年、北条時宗が病没すると鎌倉で御家人の安達泰盛と得宗家執事の平頼綱の確執が激しくなります。翌1285年11月、両者間で小競り合いが起きそれが戦いまでに発展します。そして安達泰盛が敗れると一族および安達派の御家人は次々と攻められ討ち死に自害して行きま [...]


元弘の乱-博多- (1331年~1333年)

倒幕計画が漏れ後醍醐天皇が拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集 [...]