漢委奴国王の金印 (57年)

秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。 漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」とします。しかし「新」は人々の支持を得られず倒壊し、劉邦の子孫、劉秀がこの混乱を収め「 [...]


三国志に奴国の戸数記載 (200年代)

「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、その間の国々の事が簡単に記載されています。それによると各国の戸数は次のとおりになっています。 地名 戸数 想定人口 備  考 対馬国(対馬) 1,000余戸 6千人 対馬は縦長 [...]


熊襲の抵抗 (300年代)

歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四道将軍」を発し倭国統一を目指します。これが西暦200年代後半の事だと思われます。「四道将軍」の四道とは北陸道、東海道、山陽道、丹波の四方面のことで、各将軍は共和国諸国の大和政権への [...]


三国動乱の朝鮮へ (300年代~600年代)

倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。 この経緯とその後を年表で表記します。 ■三国動乱の朝鮮へ■ 年代 出来事 出典 天皇  [...]


磐井の乱 (527年~528年)

継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされています。 磐井は肥後と豊後を押さえ、朝鮮からの朝貢船を奪い [...]