道君首人の農政改革 (713年)

若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として赴任します。年齢からして第一線を退き、引退までの繋ぎの赴任だったのかもしれませんが、首名は筑後で果物や野菜の栽培、畜産を促進し、また同時に灌漑対策も進め農政に力を入れます。 そして [...]


奈良時代の権力闘争 (716年~775年)

奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。こ [...]


梅花の宴 (730年)

元号「令和」の元となった「梅花の宴」は730年の大宰帥・大伴旅人の邸宅で行われました。 「梅花の宴」といえばなんか貴族のほのぼのとした詩会が想像されるのですが、原文でも宴会となっているようで実際は新年の飲み会だったのかもしれません。怒られるかもしれませんが、詩の才能が皆無の者とし [...]


藤原広嗣の乱 (740年)

天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は、藤原氏の勢力を盛り返そうとしますが、反藤原勢力の勢いが強く [...]


鑑真和上来日 (753年)

日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で渡航の失敗・中止を繰り返します。そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世音寺で初の授戒を行います。翌年には奈良東大寺に移り、そこで聖 [...]


怡土城の築城 (756年)

怡土城(いとじょう)は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と糸島市を隔てる位置にあり、鎌倉時代には筑前の古豪、原田氏の居城となっています。 続日本紀には「756年6月怡土城築城を始め、太宰大弐の吉備真備(きびまきび)をその責任者とした」と書 [...]


戒壇院建立 (761年)

753年、渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされています。 山門には「不許訓葷肉入境内(境内 [...]


宇佐八幡宮神託事件 (769年)

宇佐八幡宮神託事件は「続日本記(しょくにほんぎ)」に書かれている出来事です。その記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。 「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明るい心をもって助け守り、無礼な面持ちをせず、よこしまで偽ったり、へつらい曲がった心を [...]