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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2020.9.6

名所旧跡に水城西門跡を追加しました

2020.9.4

名所旧跡に小水城跡を追加しました

2020.9.3

マイナーチェンジを行いました

2020.9.2

筑後みやまの平家伝説を追加しました

2020.8.10

船迫窯跡を追加しました

2020.8.7

朝倉の三連水車を追加しました

2020.8.6

漢委奴国王印の鈕は駱駝?

2020.8.5

宮本武蔵の碑を追加しました

2020.8.4

野村望東尼終焉の宅の碑を追加しました

2020.8.3

羽犬塚の由来を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
長所ニ短所ハツキテハナレヌ者ユエ、長所サエ知レバ短所ハ知ルニ及バズ。
荻生徂徠





わかっていない事
 【神功皇后伝説は伝説?】-朝鮮半島への進出-

仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指し九州に入ります。しかし仲哀天皇は橿日宮(香椎宮・福岡市東区香椎)で突然亡くなります。これは同行した神功皇后に「熊襲より新羅を攻めるように」と神託があったにも関わらず、仲哀天皇はそれを信じず、神の怒りが下ったためと古事記に書かれています。
その後、神功皇后は新羅と戦うために朝鮮半島へ渡ります。神功皇后はこの時、後の応神天皇を身ごもっていましたが、出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やしたといわれています。この石が「鎮懐石」といわれ糸島市二丈町深江の「鎮懐石八幡宮」に祀られているとのことです。そして神功皇后は帰国後、宇美八幡宮で応神天皇を生みますが、これが安産であったことから宇美八幡宮は安産祈願の神社として知られるようになりました。

神功皇后の朝鮮遠征が何年頃のことなのか確かなところはわかっていませんが、西暦300年代に、三国動乱時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ倭国が干渉して行ったのは確かな事だと思われます。 倭国軍は朝鮮南岸、百済と新羅の間の伽耶に駐屯し百済と連携しつつ、新羅、高句麗と戦ったといわれ、その行動は高句麗の「広開土王陵碑」やその他の各国の史書に記載されています。そして倭国の朝鮮駐屯は新羅が伽耶を併合した西暦500年代中頃まで二百年程続いたものと想像されます。

以上、神功皇后が実在の人物と仮定した場合の話ですが、神功皇后は日本武尊、仲哀天皇と共に実在しなかったのではないかといった説も根強くあります。しかし九州北部には神功皇后を祀る神社や史跡があまりにも多く存在するという事実だけは否定できないのです。








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スポットライト人物伝


【高橋鑑種(たかはしあきたね)】
(1529年~1579年)


一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を攻め滅ぼし、実兄の一万田親実の婦人を側室に入れた事が一因といわれています。


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